10 年前の今日 (つまり 2013 年 2 月 1 日)、午前 3 時に公開したブログ記事「都落ち」を再掲します。この記事は当時、私が東京を離れるときの心境をつづった文章です。記事を掲載していたブログは現在、非公開にしています。
基本、「振り返らない」をアテティュードに生きていきたいのですが、せっかくなので「都落ち」再掲をきっかけに、昔はああだった、こうだったという記事もちょくちょく書いていこうかな、と考えています。
当時は書きにくかったけど、今ならいろいろ精神的な時効になっているだろうこともありますしね。
ということでまずは、「都落ち」です。
せっかくはてなのサービスを使っているから、ブログを使ってみたいと。以前から考えてまして。ワタシ、ふだんはライブドアブログの方で音楽についての駄文をつづったり、jugem でテツガク系の駄文をつづったりしているんですけれども(jugem は開店休業状態ですが)。
それで、そういう、自分が好きな音楽とか、テツガクとかの話以外でも、何か日々思ってることとかを書きつづるようなブログを開設したいなあ、Twitter( @yz_xnaga )じゃちょっと短いし。というのもあり。要するに「その他」ですね。で、「その他」をはてなでつづっていこうと。そう思ったわけです。
で、第1回目なんですが、都落ち。このタイトル通りです。
「都落ち」っていうのは、「都会で夢やぶれ、地方に戻ること。 」「都を追われて地方に逃げて行くこと。」 「大都会、特に東京から地方に転勤すること。」とかっていう意味なんですが、はてなキーワードによると。なんかスゴい意味ですね(笑)
まあ、そのまんまの意味ですね。ワタシ、10年ほど東京に住んでたんですが(厳密に言うと最初の2年は埼玉ですが)、今年の、2013年の1月末を以って、実家に帰ることになりまして。高知県ですね。実家は。それで、実家が農業を営んでるんで、後を継ごうと。そう決心したわけです。1月末、というか、これを書いているのが日付変わって2月1日で。もうアパートも引き払ってですね、通ってた大学の学会にちょっと顔を出して挨拶してそれで、東京最後の夜(笑)を過ごしているホテルで書いているんですけれども。
で、じゃあ、何故実家に帰ろうと決心したのか、ただ、実家に帰ろうと思った理由と言っても、かなり複合的なそれですので。いくつか、そうですね、「東京/地方」、「仕事」、「人生的な何か」にテーマを分けて、思いつく限りちょろちょろっと書きたいと思います。
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【目次】
1.東京/地方
大学進学と同時に、首都圏に出てきまして。最初2年は埼玉だったんですけど。その、18歳くらいとか。まあ、もっと前からだった、多分高校生くらいですかね。その、音楽とかそういう、エンターテイメントとかが好きだったので。東京への憧れ、みたいなのがありまして。その憧れ、ていうのは、最近まで、そうですね、半年くらい前? までは持ってたんですけれども。上京してからは、憧れ、っていうか、好きだ、とか、「俺、東京に住んでるんだぜ」的な気持ちですね。ただ、そういうのが、やっぱり、なくなってきた。いや、今となっては完全になくなった、てことです。
では、何故なくなったのか。これは、次の「仕事」にも関連するんですが。以前、友人の neralt くん( @neralt 、Music Theory,Nice Music,Cool Events。ジャズ理論を中心に、科学哲学の教養を援用しつつ、楽理を論じ、そんでさらに実践する音楽家、ていう。かなりクールな方です)と話してたときに、彼が「虚構」っていう言葉を使ってたので、そのまま拝借しますが。そう、虚構。虚構に思えてきた。ワタシは「中身がない」なんていうふうに言ったりするんですけど。それで、今では確信的に虚構だと認めている。ていうのがデカいです。
では、虚構とは一体どういうことなのか。一体ワタシは何を指して虚構だと言ってるのか。
かなりパーソナルな心情の話になるんですが、日本とは何か、みたいな。そういうのをちょっと考えてしまうわけです。その、自分が所属しているコミュニティーの規模を限定するのは、あまりよくないのかもしれませんが、例えば、日本人である前に私たちは地球人ですし、宇宙人ですし。ただ、それでも、日本人、ていうのは、このブログをお読みいただいている方の多くにとって、決して逃れられない、自分のアイデンティティの要素だと思います。
とにかく、自分は日本人で、で、では、日本とは何なのか、ていう。このことが分からないと、自分のことがよく分からなくなってしまうので、ここがパーソナルなところなんですが、不安になります。
で。東京だけだど日本ではない。日本ではないんですよね。というか東京って日本のほんの一部でしかないわけです。テレビ、雑誌、インターネットで流れている情報というのは、多くが東京発信で、それで、そういう情報に触れると、あたかも東京 = 日本の象徴みたいな。そういう錯覚にしばしば陥ってしまうんですが、面積的にも人口的も、日本って東京以外の方が圧倒的に多量ですし。つまり、東京というのは、何か、こう、作られた、虚構の、想像の日本である。こういうことを指して「虚構」と言ってるんですけれども。
事実としての日本、ていうのは、地方。地方にあると。思うわけです。地方が分からないと、日本なんて分からないし、それで、地方について理解するためには、東京にいたら絶対できない、どこか地方にどっぷり浸かるしかない。もちろん、その地方にどっぷり浸かるだけだと、その地方のことしか理解はできないので、日本を理解するなんて到底できないんですけれども、実際の話としては、地方なんてけっこう、大衆文化レベル的にはどこも同じで(笑)、テレビあってジャスコあってみたいな感じですし。
ですので、地方で生きること。このことこそ、日本で生きることなのではないか、と。そう考えるようになった。地方の方がむしろクールというか。極端なことを言えば、東京 = ダサいくらいの(笑)
ただ、もともと東京が生まれ、という人は、東京がその人にとっての地方になりますので。東京に居続けることがクール、て考えていただいてけっこうなんですけれども。
あとは、自分のこの東京での生活を続けるのであれば、東京に居続ける必要がないんじゃないか、ていうのもデカい。地方でも十分、今の生活を続けられる、し、家は広いしメシはうまいし、ていう(笑) やはり、インターネットの発達というのが背景にありますかね。
インターネットを通じて、今では膨大な量の情報を得ることができる。このことは、東京でも地方でも変わらない。もちろんたとえば、書店へ赴いて、実際にその本を手に取る。レコードショップへ行って掘る。なんていうのの魅力もありますが、身体的な。レコードショップへ行って掘る、ていうのは、素朴に好きな行為なので、頻繁にできなくなるのは寂しいと言えば寂しいですが。ただ、本に関して言えば、ほしい本はもう東京にも売ってないし、それこそ Amazon でコト足りますし。日本の古本屋もありますし。あとは Google Books でちまちま洋書を検索したりとかですね。レコードだったら通販で買えますしね。
本とかレコード以外の情報も、RSS と SNS があればコト足りますので。こういう、情報の面でも、もう、東京にいる必要はあんまない。学会やライブっていうのは、それは、明らかに東京にいた方がいいんでしょうけれども、最近はそれもネット配信されてたりしますし。そうですね、学会だったら質疑応答が自分でできないっていうのはデメリットかもですが、ただ、ワタシそこまでつっこんで研究者みたいに質問はできませんから(笑) そんな頭良くないんで・・・
そんなわけで、日本って何だ、て考えるようになってしまってそれで便利な時代になって。東京にいつづける理由はなくなった、ていうことです。「東京/地方」という観点からすると。
あとまあ、憧れの思想家とか芸術家とかがけっこう田舎にこもってた、ていうのもですね、大きいんですけれども(笑) 田舎にこもって俗世間から離れてですね、本読んだり絵を描いたり、っていのは、昔から憧れてまして。上記のようなことを考えるようになって、よし、地方だ! て思えるようになりましたね。
あれ? エンターテイメントはどこ行った(笑) ああ、エンターテイメントについては、主に音楽なんですが、流通量の多いそれへは興味が持てなくなった。というとこですね。流通量の多いエンターテイメント、て何だか嘘くさく感じてしまいまして。このことについてはまた別の機会にでも。
2.仕事
仕事について書く前に、ワタシが今どういうことを考えているのか、と言いますと。ホシュ的。なんだけどサヨク的な考え方。この相反する考え方の両立。というのが、ワタシのなかでここ2年くらいで沸いてきて、それで、支配した。ということになります。
ホシュ的になった、というのは、多分、キルケゴールをずーっとこの4年くらい読んでて、別にキルケゴールはホシュ的とかそういうのではないんですけれども。キルケゴールの影響が大きい。というのはあります。キルケゴールの思想を理解するためには、キリスト教抜きにはできないんですけれども、その、敢えて誤読を覚悟でキルケゴール思想を咀嚼すれば。
彼は「義務」という考え方を提示します。『これか - あれか』という著作の中で。この場合の「義務」というのは、いやいややる、みたいな意味ではなくて、ざっくり言えば、自ら進んで行う義務、みたいな感じですかね。それをやらねばならない、と、心底意志している。とでも言いましょうか。別の言い方をすると、(おそらくキルケゴールはこの言葉を使用してはいないんですが)使命。ですね。
で、こういう「義務」とか、使命とか。こういった言葉で言い表されているところのそれ、というのが、ワタシには中身のあることと思われるわけです。そうでなければ、中身はない。neralt くんの言葉を借りると「虚構」、になるんですけれども。要するに、好きだからする、というのとはまた別の行動原理と言いますか、そういうのを重視するようになった、ていうことですかね。
具体的には経済活動に収斂されます。ここから仕事の話になるんですが。東京にいる限り、その、義務に基づいた経済活動、中身のある経済活動、っていうのが、実現されないのではないか。ということです。
もちろん、東京で一生懸命働いていらっしゃる方の中には、官公庁とかね、そういう方の中には、義務とか使命とかを念頭に置いて働いていらっしゃる方もいるとは思いますが。ただ、東京で経済活動をする、て言った場合、多くは第3次産業なんですけれども、それって本当に必要なのか、と。こう考えてしまうわけです。
いやいや、必要なのは承知してます。東京の第3次産業のおかげで、ワタシはこうしてブログ書けてるわけですし。ただ、人間、しかも動物としての人間、ていうのを考えた場合、やっぱり、必要なのは食だと思っちゃうわけです。
もっと乱暴に言ってしまえば、東京をはじめとする大都市圏で働いてらっしゃる方は、「俺たちが日本の経済を支えてるんだ!」みたいな。「俺たちがシゴトの最先端なんだ」みたいな。そういう思いを有していらっしゃる方が多いと思いますし、有していなくても、こういったのを目指してるとか。そういうのがあると、素朴に思ってるんですけど、ヒドい偏見ですが。でも、そういった人たちも、食がないと生きていけない。ですし、そもそも、農業以外も含めて第1次産業がなければ、第3次産業というのは決して成立しない。それで、第3次産業に従事されてらっしゃる方って、しばしばこのことを忘れがちというか。
単純に収入だけ比べれば、高収入層っていうのは第3次産業に集中しているとは思うんですけど、でも、それでも、第1次産業がなければ、彼らの生活っていうのは、豊かには絶対にならないんですよね。このことがしばしば忘れられてて。第3次産業が通俗的な価値ある仕事として持ち上げられがちになってるのではないか、と。
ですので(「ですので」、って使っておきながら、全然論理的ではないんですが(笑))こうして経済活動に焦点を当てた場合、第3次産業て何て虚しい職業なのかと。ワタシは思ってしまったわけです。
ですので、農業をしたい。というところですね。実家は花卉農家ですので、食を支えることはできないんですけれども、でも、将来的には、食も支えることのできる農作物に取り組みたい、と考えてます。
3.人生的な何か
と、いうことで、義務だの使命だのにかられて地方がクールとか考えてしまったので、親とか、地元とか。そういうのを大事にしたい、と思うようになってしまったわけです。
人生的な何か、ていうのについてはこれくらいですかね。書きたいこといっぱいあるかもですが、もうけっこう眠いので限界です(笑)
東京には強くないといられない、みたいな考え方もありますので、事実上の都落ちと捉えていただいても構いません。冗長な言い訳だと捉えていただいて結構です。
上記以外にも、もう少し具体的な仕事とか人間関係とかパーソナルな心情とかに起因する理由というのもありますが、ネット上に公開するのは差し控えます。
まあ、あまり「離れる」っていう感じもないんですけどね(笑) 寂しくないと言えば嘘になりますけれども。前述の通り今はインターネットが発達しまくってるので連絡の手段にはコト欠かないですし。
あ、最後に、昨年制作しました自作曲、その名も〈東京〉(笑)をですね、お聞きください。
ということでということで、これからは高知をメインに生きていきます。さよなら。ではなく。これからもよろしくお願いいたします。